祖父は沖縄生まれで、母は女学校時代を沖縄で過ごしています。私は子供の頃から家で、ラフティー(豚の角煮)や、ゴーヤチャンプル・ソーミンチャンプルを食べていました。母からは、沖縄で過ごした日々のこと、母を可愛がってくれた曽祖父のことなどをよく聞かされてしましたので、沖縄は自分の第二のふるさとと思って育ちました。
曽祖父の太田朝敷(おおたちょうふ)は、沖縄最初の新聞「琉球新報」の創刊に加わり、社長時代には首里市長を勤めた人です。後に新聞週間の記念切手にもなっています(右写真)。太田朝敷の業績については、書物やネットの情報にお任せすることにして、ここでは母から聞いた曽祖父のエピソードをご紹介しましょう。
朝敷祖父さんは沖縄の第一回県費留学生に選ばれ、慶応義塾に学びます。この東京での生活を彼は沖縄に持ち込みます。思想的に訳があってのことのようですが、ひ孫として云わせていただくなら、ミーハーの新しい物好きでもあったと思われます。母が過ごしたのは、朝敷祖父さんが晩年を過ごした家ですが、これも当時の沖縄にはほとんどなかった東京風の建物でした。朝敷祖父さんはアメリカへも行きましたが、帰国してからの朝食は、「オートミール」というのですから、呆れます。好奇心が強く、新しい物好きの血を、母も私もこの人から受け継いでしまったようです。
残念ながら現在の沖縄には血のつながった親戚はもういませんが、仕事で知り合った那覇の手芸店の社長、平田千代さんという方に私は娘のように可愛がっていただきました。お宅へお邪魔して沖縄料理の作り方を伝授していただいたり、沖縄の食材を送っていただいたり。ときどき、「久美ちゃん、お母さんよ〜」という沖縄独特のイントネーションで電話をくれる、私にとってはまさに沖縄の母でした。でも、何も恩返しできないうちに他界されてしまい、ずっと悔やんでいました。今回、沖縄三越でのビーズイベントのお話を聞き、何かお手伝いしたいと思い、ワークショップをさせていただくことになりました。沖縄の皆さん、ぜひ、お出かけください。1月26日(火)と27日(水)は会場にいますので、遠慮せずに声をかけてください。沖縄の皆さんとお話できることを楽しみにしています。
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